プロットを作らない弊害

 こんな経験はないだろうか。

 映画を友人と見に行く約束をした。
 12時に待ち合わせをして、一緒に食事して、その後17時から映画を見ることにした。
 だが、食事に一時間かけたとしても、13時から17時までの予定はがら空きで、特にすることが思いつかない。
 結局、打ち合わせの時には「ま、当日適当にぶらぶらしよう」と言って何も決めないままにしておく。

 かくて、映画を見に行く日がやってくる。
 12時に友人と予定通り待ち合わせ。
 しかし、いざ合流したものの、実はどこで食事するかを決めてなかったことに気付く。
 結果、20分くらいあーだこーだー言いながら、近くの歓楽街を歩き……しかし、特に美味しそうな場所が見つからない。
 足も疲れたし、腹も減ったので仕方なく一番最後に立ち止まった場所に一番近い店にとりあえず入ってみる。
 だが、その店は昼飯時なのにガラガラで、しかもメニューも微妙に高い。
 そして、食べてみるが、可もなく不可もなく、それこそもっと安い値段で売ってる大手のチェーン店に行った方がマシだったかもしれない。

 気を取り直して友人と共に店を出るも、やはり目的がない。
 仕方ないので先に映画のチケットだけ買いに行くが、やはり3時間近くも空き時間がある。
 映画が始まるまでどうしたものかと友人と周囲をぶらつく。
 どの店に行っても、大して面白いことはなく、ありきたりな喫茶店をハシゴしたり、趣味の店をハシゴしたり。
 そうこうしているうちに面白そうな店を発見してちょっと覗こうと思ったらいつの間にか映画の時間が来ていた。
 せっかく盛り上がってきたところだが面白そうな店にはいかず、当初の予定に従い友人と映画を見に行く。
 映画は確かに面白かった。
 映画の感想を言いながら帰宅の途につき、話し合う。
 そこで、こんな会話をする。
「最後の映画はまあ、よかったけど、今日はなんか時間を無駄にしたなぁ」

 ここまで読めば大体言いたいことは分かると思う。
 プロットとは物語の設計図であり予定である。
 大抵の人の場合、物語の出だしと、終わりのクライマックスだけはぱっと思いついたりする。
 その途中の幾つかのイベントも思いつくこともある。
 でも、その出だしと最後のクライマックスに行くまでの間、どこに行って、どういう風に繋がるか全く考えてない場合が多い。
 特に哲学さんの様なプロットを余り重視しない人間においてはこの傾向は特に顕著である。
 下手をすれば、物語の出だしだけ考えて、結末がどうなるか一切考えてないこともある。
 それで面白くなるのならばそれでもいいのだが、惰性に惰性を重ねて、最初の勢いが閉じてしまうことが多々である。
 これが上記のような現実の友人との待ち合わせやデートであるならまだ構わない。
 予定を決めてなくても、ぼーっとしてたりうろちょろしていたら時間はつぶれる。
 しかし、これが自分の作品作りの場合、ぼーっとしてても原稿の白紙は埋まらず、締め切りまでのタイムリミットだけが狭まっていく。
 せっかく思いついた面白い結末まで到達できない。
 白紙の原稿だけが目の前に迫る。
 多くの場合、その物語は完結を見ず、破棄され、作者は別の新しい物語に目移りしてしまう。




 プロットなんてなくても作品は書ける。
 でも、面白い作品が必ず書けるとは限らない。
 勿論、ぶっつけ本番でも面白い話を書けるアドリブ力の高い人もいる。
 けれど、年齢の経過と共に従ってアドリブ力が低下していくことも多い。
 アドリブ力に自信がないのなら……素直に予定を、あるいはプロットを組んだ方がいいだろう。
 相手が友人であっても、恋人であっても、あるいは……それが自分の作品の読者であっても、相手を楽しませることにこしたことはないのだから。





 と言う文章を書いて、プロットを書かずに作品を書き始めようとしている自分をいさめる哲学さんであった。