救世の品格 序章 第二校

 色々と試行錯誤中。

 以下、小説大賞に出そうと思って描いてる小説の第一章です。
 ご意見・ご感想などもらえればありがたいです。
 よければ、暇つぶしにどうぞ。


序章

 
 そして世界は崩壊した。
 後には何も残らない。
 空も地面もただの白で埋め尽くされ、失われた世界でただ一人、ぼくだけがここにいた。
 強大な力によってぼくの知るその全てのものが無に消えた。
 吐いた息は白く染まり、空へと溶けていく。
 白の世界でただただ立ち尽くすぼくの元へ、数え切れないほどの滅びの雪が降り注いでいた。
 間もなくぼくもこの白の世界に飲み込まれ死んでしまうはずである。
 しかし、不思議と恐怖はなかった。心のどこかにある冷静な部分が、目の前で起きたことが大きな視野で見れば小さな出来事でしかないと気付いていたからか。それとも、ただ単に自分が薄情な人間だからか。
「のど、かわいたな」
 ぼくは呟くと共に歩き出した。刺す様な冷気が露出した肌を刺激する。それがまだ自分が生きていることを知らせている。
 不思議な感覚だった。
 息をする度に自分が世界の中に溶け込んでいくような感覚。体から魂が抜け出して、猛一人の自分を空から見下ろしているような感覚。五感は自分の体を離れ、この周囲全てに拡散し、この大地そのものが自分の体になったかのような感覚。
 しばらく歩くと、轟音を発する巨大な激流が見えた。三途の川にしてはあまりにも激しい濁流。
「…………」
 その流れの激しさにぼくはただただ立ち尽くした。
 自分の感じたとおりに水のある場所に辿り着いたけれど、これでは水を汲むどころではない。流れに手を触れた瞬間に水の中に飲み込まれてしまいそうだった。
 まだ小学生になったばかりのぼくにはあまりにも荷が重すぎる。
 そうして立ち尽くすぼくの視界に奇妙なものが現れる。
 それは人だった。
 川向こうに黒い長髪の袴姿の女性が歩いていた。時代劇に出てくるサムライみたいな格好なので、この場合は男装の麗人、と言うべきかもしれない。少なくとも、ぼくは彼女を見た時、なんでこの雪女は男装をしているのだろう、と場違いなことを考えていた。雪国では雪女みたいな妖怪は定番であるものの、それが男装というのは聞いたことがない。
 その男装の雪女はこちらに気付くとそのまま間にある川へと足を踏み入れた。
 すると、川の中に吸い込まれるはずだった彼女の足は何故か激流を踏み、そのまま水の上を歩きだした。足音も、水音も立てず、さも当然といった感じで彼女は激流の上をのんびりと歩いている。それをぼくはじっと見つめていた。その様子に気付いた彼女はやや驚いた顔をして、激流を踏破し、ぼくの隣に立った後おもしろそうに聞いてくる。
「おや、少年にはあたいが視えるのかい?」
「……はぁ、みえますけど?」
 ぼくは素直に応える。見えるものは仕方ない。
「へぇ。ていうか、あたいが水の上を歩いているのを視て驚かないのかい?」
「まあ、ようかい雪女ならそれくらいするかな、て」
 その言葉に男装の雪女は何が面白いのかあっはっはっ、と仰け反るほど笑う。
「そうかい、あたいは雪女に視えるのかい?」
「だって、雪女は美女なんでしょ?」
「ほーう、嬉しいことを言ってくれるじゃないか。君にはタラシの才能があるかもね。
 残念だけど、あたいはまだ人間だよ。美人なのは認めるけどね」
「はあ……」
 確かに雪女にしてはちょっと明るすぎるかなぁ、と怪談との違いを受け入れる。ぼくの知る雪女はもっと粘着質で、こんな太陽みたいな明るい笑い方の出来る妖怪ではない。
「しかし、なんだってこんなところに一人でいるんだい?」
「むらが、なだれに、のみこまれて……」
 ぽつりとぼくは答える。ただ事実を述べるだけ。
「ぼくだけがのこった」
「へーぇ。どうやって?」
 降りしきる雪の中、この全てを見通すような透明な視線がぼくを射貫いた。なんとなく違和感。この人はただぼくを見ているだけじゃない。なにか、もっと深いものを視ようとしている。
 ぼくは返答に迷う。この人には本当のことを話したい。けど、本当のことをどうやって表現すればいいのか、子供のぼくには分からない。
 考えに考えて――そして、ひとつの結論を出す。
「……こえがきこえた」
 いなくなった村の人達が聞けば、あるいは死んだ友人達が聞けば誰もが何を言ってるんだ、と笑い飛ばしただろう。しかし、目の前の女性は違った。
「何の声が?」
「――やまのこえ、だとおもう」
 ぼくが聞いたのは本当のところは声ですらない。具体的になにかメッセージを受け取った訳ではない。ただ、自分の居場所が危険だと感じたのだ。山が、ぼくにここに居てはダメだ、と語りかけてきたように思う。
 気がつけばぼくは吹雪の中、外へ向かい、《山の声》に導かれるままに外へ歩き出していった。その数分後、雪崩が全てを飲み込んでいた。
「なるほど。あたいが視えたことといい、少年には天稟があるようだねえ」
 ぼくの話を聞き、男装の麗人はそんなことを言った。しかし、この人は寒くないのだろうか。袴の下には素肌が、それこそ胸元が結構露出し、手足も半袖だというのにこの人は全く寒がる素振りがない。果たしてこの人が妖怪ではないとするのならば一体なんなのだろうか。世の中には不思議なことが一杯だ。
「少年、家族は?」
「いない。たったひとりのしんせきも、さっきしんだ」
「そうか。悲しくないのか?」
「べつに」
 両親が死んだ時も悲しいと思わなかった。親戚に引き取られ、都会からこんな山奥に連れてこられても、特に何も思わなかった。涙を流さないぼくを周囲は強がってるか、あるいは両親の死を理解してない、と解釈していたが、そんなつもりはない。死んだものは仕方ないし、居なくなったものは仕方ない。あるがままを受け入れてきただけだ。
「ただ――」
「ん?」
「――ふしぎです」
 疑問をぼくは投げかける。
「なぜ、ぼくだけがいきのこったのでしょうか。なぜ、ぼくはいきているのでしょうか。
 いきるってなんでしょう?」
 そして、ぼくは辺りを見回す。
「このせかい、てなんでしょう?」
 漠然とした、疑問。
「おねえさんは…………もしかしたらなだれをとめれた?」
「ん? まあね。アンタの思ってるとおり、あたいは雪崩が起きることを予め分かってたし、止めることも出来たよ」
 事もなげに彼女は言う。果たしてそんなことが人間に出来ることなのか。それでも、こんな寒空の下、平然と肌を露出し、激流の上を歩きまわったりするこの人に今更常識を当てはめるのは間違いだろう。
「なんでとめなかったの?」
「そらあ、ね。力あるものは他者のために使ってはいけない。そう言う決まりなんだよ。世界の法則。世界のルール。そして、世界の真理、てやつさ」
 ウインクを投げかけてくる雪女ではない何か。
「しんり」
「そう、真理。少年は不思議なのだろう。知ってか知らずか、少年はこの世界の根源に目を向けようとしている」
 妖怪ではない何かは、ふっ、と妖艶な笑みを浮かべ、かがみ込む。ぼくと目の高さが同じになる。鼻がぶつかりそうなほど間近で彼女はずずいと迫ってくる。
「知りたいと思わないか?」
「…………」
 何を? なんて不粋なことは言わない。それが何か、具体的には分からなかったけれど、それでも彼女がぼくが本当に欲しいものを分かっていることは理解していた。
 だから、ぼくは答えた。
「はい」
「――《無我の境地》を目指すといい。そこに答えはある」
 そう言って彼女は立ち上がり、ぼくの首根っこをひょいと掴み、持ち上げた。
「さてと、神隠しと行こうか。まあ、どうせ少年は雪崩で死んだことになっているだろうけど」
 因果の糸もないしな、と彼女は確認をする。そして、付け足す。
「そう言えば、少年の名前を聞いてなかったな。お前の名前はなんていうんだい?」
 そうしてぼくは名乗ることになる。これから師と仰ぐその人に。それは儀式だった。彼女が、ぼくを縛る呪文。ぼくの行き先を決定づけるなにか。
 そして――。
 
 
 
 不意に、目が覚めた。
 ぼんやり頭で周囲に目をやる。
 まず目に入ってくるのは見事な滝。それを囲む森。そして、水面に映る自分の姿。岩の上にボロボロの作務衣を着て、餌のない釣り竿を垂らす痩身の少年――それが俺だ。
 ――どうやら夢を見ていたらしい。
 初めて師匠と出会った時の夢。俺が今に至る分岐点。あの頃のことなどすっかり忘れていたが、数年経った今になって何故思い出したのか。
 師匠のことを思い出すとろくな事がない。あれはあれでとても凄い人だったのだが、結局俺は追いつくことが出来なかった。
 ――まあ、独り立ちしたのだから、どうでもいいのだけれど。
 とはいえ、未だに俺は無我の境地にはたどり着けていない。あくまで求道者の位置に甘んじている。もっとも、道にたどり着いた求道者などなかなか見かけないものだが。
 いつだって人間は中途半端だ。だが、それでも極地へとたどり着こうとするのが我が流派の在り方なのだけれど。
 ゆっくりと息を吸う。
 清涼な滝の音が静けさを演出し、鳥たちのさえずりと風による森の声がすう、と体の中に溶け込んでくる。ここはある種の聖域であった。俗世から隔離された一つの楽園と言っていい。
 その楽園を踏みにじる何かが近づいていた。
 ――起こされた原因はそれか。
 そう言えば俺はここに座ってて何日が経ったのだろう。最後に釣り糸を垂らした時の記憶が思い出せない。飲まず食わずでも生きていけるというのは便利だが、つい時間という感覚が薄れてしまう。
 そんな事を考えていると鳥たちの羽ばたく音が聞こえていた。周囲から小動物が逃げていく気配を感じる。そして、近づいてくるのは鋭い、研ぎ澄まされた刃の気配。近づくもの全てを切り払わんとする断罪の剣。
 振り返ると、そこには気配とは裏腹に一人の美しい少女が立っていた。ジーンズの上下と言うおよそ色気のないアウトドアスタイルも彼女が着れば、ただそこにいるだけで鍛えられた日本刀の如き鋭さと、美しさを感じる。真っ直ぐに伸びたしなやかな剣のような少女。そんな彼女の鋭く、大きな瞳が俺を射貫いていた。
 実に美しく、人間らしい。刀とは、人が作ったものでもっとも美しいものの一つであると思う。故に、自然を是とする俺とは常に対極に位置する。
 彼女は背に荷物を背負い、片手には木刀を一本携えている。まさにこれから旅立とうという気配がありありと見える。
「やあやあ、これは久しぶり。何年ぶりかね」
「一週間ぶりよ、ボケナス」
 返す言葉は刃の様に冷たい。うん、実に彼女らしい。
「ん? そうだっけ? まあ、そんなものか」
 だとすると、もう一週間も何も食べてない計算か。まあ、そんなものだろう。
 ぼりぼりと顎を掻きつつ、そっかそっかと頷く俺。時間という概念がどうしてもぼやけてしまうのは我が流派の欠点だと常々思う。でもまあ、時間に縛られた人生と比べれば何千倍もマシだろう。
 頷いているうちに何故か相手の刃の様な怒気がより一掃大きくなった気がする。どうしたというのだろう。生理だろうか。
「今日こそ私は山を下りる」
 険のある――だが、聴くものを引きつける美しい声が森の中に響き渡る。
「ははは。残念だなぁ。今は釣りで忙しい。別の日にしてくれ」
 俺は彼女に笑いかけてやるが、彼女の美しい顔はぴくりとも反応しなかった。なかなか寂しい。
「私は山を下りなければならない」
 その言葉に俺は大きく溜息をついた。
「どうしてだ」
 釣り竿を引き上げ、俺は完全に彼女の方に体を向ける。
「お前さんはなんでこの山のてっぺんにある全寮制のお嬢様学校に連れてこられたのか、分かってないのか」
 彼女の双眸たただ真っ直ぐに俺を射貫く。
「そう、その眼がいけない」
 彼女は俗世で生きるべき人間ではない。あまりにも澄んだ瞳が世界の歪みを捉えてしまう。世の中の不正、間違い、あるゆるものをその眼は見てしまうし、見逃すことが出来ない。彼女は幼少から喧嘩している人間が居ればそれを止めようとしたし、大人達のえこひいきや欺瞞を片っ端から否定していった。結果、この人里離れた山奥にある女子校に押し込められることになったのだ。
「君はその力に比して、まだあまりにも未熟だ。今の俗世は乱れ、危険に満ちている」
 彼女の透き通った黒瞳が真っ直ぐに俺の目を貫いてきた。
「だからこそ」
 決意は重く、揺るぎない。全ての覚悟がそこにある。
 彼女の瞳は遂に国の乱れに耐えきれなくなったらしい。なんと馬鹿馬鹿しい。一人の人間に何が出来るというのか。この問答は幾度も繰り返され、幾度も堂々巡りになっている。
 俺は釣り竿を投げ捨て、大げさに両手を広げた。
「あーあー、分かってないね。全く分かってない。今からでも遅くはない。回れ右をして学園に帰りな。君みたいな子は山奥で神様でも祈っていればそれでいい」
 すると、そこで初めて彼女は口元を綻ばせた。
「あら、貴方は知らないのね」
 突然の変化に俺は軽く驚く。驚くなんてなかなか久しぶりだ。
「何を?」
 思わず発したその問いに彼女は楽しそうに応える。
「神は既に死んでいることを」
 ヒュー、と軽く口笛を鳴らす。
「言うようになったねぇ。口先だけは立派になった……かな」
 ――それでこそ我が宿敵、と言いたいところだが……。
 俺は無造作に彼女に歩み寄った。
 踏み出した一歩が十メートルの距離を縮め、文字通り一足飛びに彼女の眼前へとこの体運ぶ。
 突如として鼻先へ現れた俺の姿に彼女は愕然とし、一拍遅れて飛び退いた。
 ――この分だとまだまだ宿敵としては未熟すぎる。
「――相変わらず、気配がないのね」
 荷物を投げ出し、彼女は木刀に手を添える。その姿はまるで居合いを放つ侍のようである。
 対する俺はただ息を吸い、作務衣のポケットに手を突っ込み佇むのみ。
 無造作に立つ俺に対し、彼女は一分の油断を見せず、一挙一動を見逃すまいと睨んでくる。まあ、俺との戦いに置いては見逃す、見逃さないの問題ではないのだけれど。
「そう見つめてくれるなよ。照れるじゃないか」
「嘘つき」
 けらけらと笑いつつ、精神は驚くほど静まっていく。息をするたびに心が穏やかになり、世界との調和が満たされていく。
 対する彼女は近寄る全てを切り裂かんと恐ろしいまでの殺気を周囲へまき散らしていた。荒々しい、若い衝動。
 それに応えるが如く森に再び烈風が吹き荒れ、薄雲が空に漂い始める。なかなか彼女は世界に愛されているらしい。
「ははは……いかにも若輩者と言った感じが実に可愛い」
「あなたも同い年でしょ」
「んー? そうだっけ? あー、そうかもなぁ。ああ、そうかそうか」
 カレンダーなどと無縁の世界を生きていたせいですっかり忘れていた。そう言えば自分は生まれてきてからまだ十数年しか経ってないらしい。
「で、いつまでそうやって構えているつもりだい?」
 彼女は構えつつも、その場から一切動こうとしない。
 いつしか空は暗雲に覆われ、暗闇が森に降りた。闇の中で対峙する俺と、彼女。
 息を吸い、大気と調和する俺には分かる。彼女の周囲には殺気で塗り込まれた必殺の領域が展開されているのだ。踏み入れば、即座に死へ直結する絶対の領域。
「そちらが動かないというのならば――」
 その領域を――。
「――こちらが動くまで」
 無造作に蹂躙する。
 彼女の真正面へ体が動く。気配のない俺に彼女は反応できない。ポケットに手を突っ込んだまま右足を振り上げ、つま先でとん、と彼女の鎖骨の間だを軽く蹴った。
 瞬間、彼女は背後へ十数メートル吹き飛ばされる。人が地面と水平に飛ぶ様はなかなか見られるものではないが、俺にかかればこれくらい造作ないことだ。
 彼女は吹き飛ばされながらも、なんとか居合いの姿勢を維持し、地面に着地した。地滑りを起こし、地面に二つの溝が刻まれる。
 彼女は気丈にもこちらを鋭く睨んでいるが、内部では凄まじい激痛が走っているに違いない。
「諦めるべきだ。君では俺には及ばない」
 力の差は歴然だ。彼女はこちらの攻撃を避けれない。そして、彼女はこちらを捉えられないので剣を抜き放つことすら出来ない。無闇に振り回していた昔よりは進歩しているが、これではどうにもならない。そしてこちらの攻撃は――その気になれば一撃で彼女の命だって奪える。
 彼女と俺が戦うのはある種の宿命である。彼女は我が流派の敵対者だ。何百年も前から俺たちの流派はこうして戦ってきた。俺と彼女の師匠も、だ。
 しかし、これでは意味がない。彼女がこんな未熟者では戦いにすらならない。
 それでは困るのだ。
 今のまま、未熟なまま山を下りて、俺の宿敵になる前に死んでしまっては俺が《無我の境地》にたどり着けなくなってしまうかもしれない。
 ――なんだって彼女の師匠はこんな山奥にいるお嬢様学校の、あんな厄介な眼の持ち主を後継者に選んだのだか。あのエロジジイ、後継者選びと称して女子校に潜んで好き放題していただけじゃないのか、と勘ぐってしまう。
 ――まあいい。ともかく、今代の俺の相手は彼女なのだ。こんな未熟なまま山を降ろす訳にはいかない。
「君には力が足りない」
「――だとしても」
 彼女はここで大きく息を吸った。彼女の中でなにかが膨れあがるのを感じる。
「私にも譲れないものがあるっ!」
 生まれようとしている。
 とても大きな力が。
 磨き上げられた剣が――ついにその刃を放とうとしている。
 だが何を斬るというのか。
 彼女に――何が斬れるというのか。
「私の剣は――」
 吹き荒れる風の中、ざわめく森の中――彼女は剣を抜きはなった。
 地から吹き上がり天を貫く斬り上げ。
「――天をも許さない」
 全ての風がやんだ。
 森は静寂を通り越し、沈黙によって覆い尽くされた。
 全てが静止した世界。
 その静止を破るべく、俺は万感の思いを込めて告げた。
「見事だ」
 彼女の剣は遂に俺の体を捉えることは出来なかった。こちらの体には何一つ傷はついていない。
 ――だが。
「好きにするがいい」
 太陽の光が森に注ぎ込まれていた。
 おもむろに空を見上げると、それまで空を覆っていた雨雲が見事に真っ二つに斬り裂かれ、光の道を作っていた。太陽の輝きの全てが地上を照らしていた。
 ――奥義《天薙》(あまなぎ)。
 彼女の流派の最奥にして最大の秘技。天を裂く終の剣。それを彼女は体得していた。
 彼女がこの秘技を見たのはただの一度だけのはず。それだけで自分のモノにしたというのならば、なるほどあのエロジジイの眼は節穴ではなかったということか。
 なんにしても、この技を会得した彼女を引き留める理由はない。
「じゃあ、行かせて貰うわ」
 素っ気ない言葉に思わず苦笑する。相変わらずかわいげのない。せっかく褒めてあげたというのに。
「では、暇なのでついて行くとしよう」
 こちらの善意に彼女は露骨に顔をしかめた。
「おいおい、その顔はなんだい? 俺ほど心強い味方なんていないぞう」
「自分の為にしか力を使わない癖に何言ってるのよ」
 ふん、と顔を背け、彼女はつかつかと俺の傍らを通り過ぎていく。
「第一臭いし、キモイし、意味分かんないし。ストーカーするとかやめてよね」
 嘘付け。こっちの匂いすら感じ取れてない癖に。
「ははん、止めれるもんなら止めてみな!」
「くっ……」
 奥義を会得したとはいえ、二人の力の差は歴然だ。彼女がこちらをどうこう出来るはずがない。
「ほらほら君の未熟な力で、君はどこへたどり着けると言うんだい? あー? やっぱ山に居た方がいいんじゃない?」
「力ってのはねっ!」
 おどける俺に対し、たまりかねた彼女が怒声を放つ。
「誰かの為に使うものなのよ! 山奥で磨いてたってなんの意味もないわっ!」
 彼女はこちらに背を向け、ずんずか歩き出す。
「うわぉ。俺の流派全否定」
「当たり前でしょ。あなたのところを全否定するのが私の流派だもの」
 そらそうか。敵対流派なら仕方ない。
「まあまあ師匠達の因縁は忘れて仲良くしようぜ! お嬢ちゃん」
 俺の言葉に先を行く彼女は足を止めた。
 振り向き、とびきりの殺意を込めて告げてくる。
「約束!」
 突然の言葉に反応に困る。約束。なんの?
「私が奥義を体得したのなら――あなたは私の名前を呼ぶはずでしょう? それとも忘れたの?」
 ああなるほど。そう言えば再会した時にそんな約束をしたような気がする。
「そうだったね。では、おめでとう。十一代目鬼一法眼ちゃん」
「違う!」
 せっかく襲名を祝ってあげたのに彼女の顔は今にも不満で爆発しそうだ。クールビューティと思っていたのになかなか感情的だ。
「そうじゃない。そうじゃないの」
 彼女は真剣な眼差しでこちらを見つめてくる。
 それに対し――俺は何も返さない。何も返してあげない。
 ただただいつも通り、そこにあるだけだ。
 沈黙が再び辺りを包み込む。
 彼女は根負けし、溜息をついた。
「そうね。では、改めて覚えて貰うわ。
 私の名前は泉野いのり。
 ――あなたを殺す女の名前よ」
 凄まじい殺気が向けられる。だから、対する俺もとびきりの笑顔を込めて名乗った。
「俺の名は弥山然。どうあがいても君が勝てない雲の上の存在さ」
「ふん、覚えてなさい」
 言って、彼女は再び歩き出す。
 ここから始まるのだ。俺と彼女の旅が。無我の真髄へと至る為の旅が。
 そのためには――。
「ところで」
 不意に、彼女がこちらに振り向く。
 その顔はいつになく真剣だ。
「一つ、大事なことを訊きたいことがあるのだけれど」
 鋭い、真っ直ぐな瞳。恐らく生半可な質問ではあるまい。
「へぇ、どんなこと?」
 軽薄な態度は維持しつつも、心を引き締める。どんな質問にも対応出来るように。
 だが、彼女の質問はこちらの想像をはるかに越えたものだった。
「ところで、あの奥義になんの使い道があるの?」
 耳を疑うなんてもんではない。
「うぉぉぉいっ!」
 俺としたことが思わず声を荒げる。
「何言ってんだ! 何のために今まで修行してきたんだよお前は!」
「いや、空を切り裂くなんて奥義に何の使い道があるのよ。対人戦において全くの無意味じゃない。さっぱり分からないわ
 これが出来たら山を下りてもいいって言われたからやったけど、さっぱりだわ」
「なんでそんなきりっ、と自慢げなんだよ! 『技』と『体』ばっか鍛えやがって!
 『心』を鍛えろよ! この馬鹿女!」
「馬鹿とは何よ。奥義極めたんだからいいじゃない」
 あまりにも酷い発言に思わず俺は頭を抱え込む。
 ――なんかもう、ホントにもう……色々とがっかりだ。こいつ俺たちの宿命も流派の目指すべき地平もさっぱり理解してないに違いない。あのエロジジイちゃんと弟子を育てろよ! 放任主義過ぎるだろう! あんたの流派こいつの代で終わるぞ!
「……まあいいわ。天を切り裂くとかなんか格好いいし、持っておくに超したことはない技だし」
「謝れ! 開祖様と先代達に土下座してこい!」
「人は現在を生きるものよ」
 威風堂々たるその姿には全く悪びれる様子がない。見た目はあるし、実力もある。新年もあるが――。
「……はぁ」
 空は快晴。見事な雲の道がお天道様へと伸びていたが、俺たちが進むべき道は暗雲が立ちこめている。
 ――まあいい。俺は俺で無我へと向かうだけのことだ。
 さて、物語を始めよう。
 長い物語になるかもしれないが――なあに、気にすることはない。地球の生きてきた時間に比べれば大した時間じゃないさ。

 第一章へ続く。


 字数制限でとめられたのでここで切り。一章を次で出します。
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